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越前の城日帰り旅行

旅行日:2005年7月25日

●旅行記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2005年7月25日

 「骨折もする但馬旅行」以来となる青春18きっぷを使った日帰り旅行を敢行。大阪から福井までの片道約200km往復約400kmにも及ぶ長い鈍行列車の日帰りの旅が始まった。
 大阪駅7時14分発の新快速に乗って米原を目指す。京阪神地域で新快速はJR・私鉄を含めて最も速いのでその人気は高い。ラッシュ時間以外の昼間でも空席が見られないほどの盛況ぶりだが、大阪到着時に乗客の半分ほどが降車するので座れる。特急並みのスピードである130kmを出す。その上、向かい合わせの座席で、座席の方向を前後に転換できる転換クロスシートを装備している。
 そんな新快速はこの早朝の電車も盛況のようで、かなりの混雑だった。ひどい混雑は京都で収まったが、それでも、座席は全部埋まって立ち客もいるくらいだった。車窓には遠くに見える比良山系の山々と近江米の田園風景が続いていた。堀川の城下町・近江八幡を過ぎると、今度は安土を通過する。駅前には織田信長の銅像相撲櫓があり、車窓からは安土城のある山がはっきりと見える。見えたら、すぐに短いトンネルをくぐって能登川側に抜けるが、このトンネルを境にして冬は雪景色に変わることもあるという。彦根城の最寄り駅である彦根を過ぎると次は米原だ。結局、米原まで席に座ることは出来なかった。
 米原は有名な交通の要衝東海道新幹線の他に、東西に東海道本線大垣方面はJR東海、草津方面はJR西日本)、北へ北陸本線敦賀方面、JR西日本)、南へ近江鉄道八日市方面)の各線が伸びる。青春18きっぷで東海地域を目指す場合は多くの場合はここで乗換が必要なのだが、ここで椅子取りゲームが起こることになる。JR西日本の新快速は8両ないし12両編成なのだが、JR東海の普通は2両ないし4両編成で運転されるので編成が半分以下になるのだ。僕は今回、北陸本線に乗るので、走っていく人を横目に、歩いて乗換えをした。
 今度乗車した電車は米原8時39分発の普通敦賀行。白いボディーに青い帯を巻いた車両が止まっていた。この車両は直流交流という2つの異なる電化方式の間を走る。2つはそれぞれ電圧が違う(北陸本線の場合は直流1,500V交流20,000V)ので、電流が流れていない箇所(=デットセクション)が存在する。湖北では北陸本線長浜虎姫間(長浜駅を出てすぐ)と湖西線永原近江塩津間にある。直流区間しか走れない新快速を乗り入れをさせるために、敦賀までの直流電化工事が進められている(2006年秋完成予定)ので、完成するとセクションの場所が変わることになる。
 乗り込んだ電車は米原駅を発車した。2駅ほど過ぎると長浜駅。ここまでは新快速も乗り入れてくるが、この駅を出た途端に車内の冷房や電気がほとんど全て消えた上記の通り、交直セクションに入ったので、この区間で運転手は直流から交流への切り替えをしているのだ。20秒ほどで冷房や電気はついた。次の虎姫駅の入場券はタイガースが優勝した年には大量に売れたという。小谷城の最寄り駅である河毛木之本町の中心駅、木ノ本を過ぎると、天女の羽衣伝説が残る余呉湖の脇を通り、近江塩津に着く。ここで湖西線と合流するが、普通との接続はすこぶる悪い。しばらく進んで福井県に入って、新疋田を過ぎると、長いトンネルに入る。これを抜けるといよいよ敦賀駅だ。
 北陸本線は特急街道だ。昼行特急だけでも大阪・京都−金沢富山・和倉温泉間の雷鳥サンダーバード名古屋・米原−富山・和倉温泉間のしらさぎ越後湯沢東京方面へは上越新幹線に乗換え)−金沢・和倉温泉間のはくたか、金沢−新潟間の北越が走っている。混み合っているところでは、普通が1時間に1本に対して、特急が3本通る。そのため、普通に乗ると、特急の通過待ちが数多く発生することになる。だが、今回は福井までしか乗らなかったので、通過待ちに遭遇することはほとんど無かった。
 敦賀で待っていたのは9時42分発の金沢行きだった。これでもそこそこのロングランだが、米原発富山行という電車も存在する。敦賀を出てしばらくすると、全長13,870mもの長大な北陸トンネルに突入する。日本初の10km超のトンネルだったそうだ。随分前にNHKのドキュメンタリー番組でも取り上げられていたが、1972年11月6日に北陸トンネル内で急行きたぐにの食堂車から火災が発生、30名の犠牲者を出した。この事故で、長大トンネル区間における安全対策が進んだという。トンネルを抜けて、武生鯖江という福井近郊の都市を過ぎると、福井に到着。

 北陸新幹線に先駆けて工事中の新幹線福井駅を横目に駅の高架を降りると、そこは市街地。そこここにある案内地図を頼りに福井城を探す。郵便局はどこかと聞かれたが、こっちが城はどこかと聞きたいくらいだった。福井県庁の場所が城跡だと分かったので、それからは速かった。誰かは知らないが銅像(調べたところによると、藩の財政改革を手掛けた福由利公正横井小楠らしい)や立派な石垣と堀なんかをしばらく眺めながら歩いた。

藩の財政改革を手掛けたという偉人

幅の広い堀と高石垣、今でもここは政治の中枢

県庁の建物を外して撮影してみました

福井城の古絵図

 石垣の上には今は福井県庁や福井県警が建っているのだが、どうも堀の周囲を歩いているだけでは気がすまなくなったので中に入ってみることにした。立派な橋が架かっているのでそこを渡って敷地に入ると、結城秀康公の像が立っていた。秀康は徳川家康の子であったが、家康に嫌われていたために将軍職に就くことはなかった。
 これだけでも収穫があったのだが、天守台を発見したので早速登ってみた。すると、福の井という井戸があった。一説によると、福井の名前の由来はこの井戸ということらしい。その近くには、昭和の福井地震で傾いた石垣があった。自然の威力に驚かされるとともに、石垣の長い歴史を感じた。

左の橋は県庁や県警に入る為の入口として機能している

徳川家康の子である結城秀康

天守台へ登る階段

福井の由来といわれる「福の井」

福井地震で傾いた石垣

左に見えている看板を拡大

これが天守台

 

 近頃、整備されたという北ノ庄城址を探したが、全然見つからずに足羽川まで行ってしまった。足羽川といえば、越美北線の鉄橋が流されて、長らくバス代行運転をしていることを思い出す。復旧の目途は立っておらず、ローカル線の為にそのまま廃止になるのではとの話もあったが、このほど復旧の予算が計上されたらしい。ひとまず安心したい。
 市街地の端まで行っていたが、また駅の周辺に戻ってくると、北ノ庄城址は簡単に見つかった。なぜ、こんなに苦労したのかが分からなかった。おかげでこの後の行程に影響が出ることになるのだった。
 北ノ庄城址では柴田神社柴田勝家の銅像、それに九十九橋や発掘された遺構の数々を展示している。柴田勝家の持っている長槍がカメラに収まりきらなくて困った。九十九橋はもともと足羽川にかかっていた橋だそうで、面白いことに半石半木という変わったもの。公園は小さいスペースに色々と凝縮して展示しているという感じだった。道に迷って、予定よりも時間が遅れていたので、ここは少し見ただけだった。

暴れ川の足羽川

北ノ庄城址公園の全容

北ノ庄城の「想像図」

半石半木の九十九橋(欄干に注目)

柴田神社

長槍を右手に持っている柴田勝家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 えちぜん鉄道に乗るために急いで福井駅に戻るが、乗るはずだった電車には結局乗れなかった。そこで、JR福井駅で駅弁を仕入れておこうと思い、駅弁屋へ向かった。だが、手に入った弁当がなぜか「加賀彩時記弁当」だった。ここは越前なのに・・・。本当はカニの弁当が欲しかったが、昼時にはまだ早かったので入っていなかった。

 あれから30分後、えちぜん鉄道の同じホームに三国港行が入線した。えちぜん鉄道は近年に誕生した鉄道会社で、同じ路線をそれ以前は京福鉄道が営業をしていた。数年前、度重なる事故を起こし、営業停止になった。えちぜん鉄道は第3セクター化した上で、この路線を復活させた。その路線とは勝山永平寺線と乗車する三国芦原線の2路線である。
 車内には某遊園地の広告を流し続けるテレビがあった。他にも、アテンダントと呼ばれる女性が乗車していた。主な業務は降車客からのきっぷの回収、無人駅からの乗客にきっぷを販売、スマイルくらいだろう。「何でもお申し付け下さい」と言っていたが、申し付けている人はほとんど見かけなかった。
 電車は定刻通りに福井駅を離れた。乗客は席が全部で半分と少しが埋まる程度で、それも進むごとに少なくなっていく。周囲の景色も住宅地の中だったのが、越の米「コシヒカリ」の産地らしく水田の中を走るようになる。JR芦原温泉駅との乗換駅になるあわら湯のまちで乗客が更に減り、終点間近の三国で自分以外が下車してしまった。1人の乗客とアテンダントと運転手を乗せた電車はたった一駅だけの区間を走って終点・三国港に着いた。三国港の木造駅舎は鉄道省線だった時代を伝える貴重なものだ。車止めのすぐ先には日本海が広がっている。
 しかし、ここでひとつ問題があった。ここから次の目的地の名勝・東尋坊へ行くためにバスに乗るつもりをしているのだが、如何せんバス停が見つからない。映画に出てくるような三国の漁師町の小路を歩いてバス停を探したが、見つからない。それでも、しばらくすると変化があった。歩いていると国道とおぼしき大きな道に出たのである。見えるのは「三国サンセットビーチ」の駐車場の看板だけ。でも、近くにバス停があることを確信したので、探してみると「米ヶ脇」という京福バスのバス停があった。京福?と思って時刻表を見てみると、まだまだ時間に余裕があったので遅い昼食(福井で買った弁当)をとることにした。弁当の中身は幕の内と煮物などだった。
 おいしく昼食を食べ終え、なお時間に余裕があったので砂浜をしばらく眺めていた。すると、頃合が良くなったのでバス停に行ってみると正真正銘の京福バスがやってきた。奇岩絶壁が車窓を流れ、いつの間にか東尋坊のバス停についていた。だが、降りないつもりでいた。実は砂浜を眺めていた時に考えたのだが、電車に乗り遅れ、バスも乗り遅れた今は次の目的地に向かうべきではないかと。さもないと、後々の行程に影響が出るほどのものだった。

三国サンセットビーチ

サンセットビーチすぐ近くのバス停

 次の目的地・丸岡藩砲台跡へはこのバスで行ける。観光客らしき乗客を降ろしたバスは地元住民っぽい数人と共に海岸沿いの道を進んだ。「梶浦」というバス停で降りたのは僕だけだった。それまでに乗客は全員降りていたので、貸切状態で走り去った。
 バス停の前はいかにも漁業の町という雰囲気を醸していて、日本海の磯の香りが鼻に伝わる。あまり迷うことなく集落の中を歩いて目的の砲台跡に着いた。初めてみるような形のもので、なんと言って表現して良いか分からなかったが、眩しいほどの日本海とただ海岸に佇むだけの砲台は哀愁を感じさせた。大陸とはそう離れていないこの地は砲台を築かせようとさせるほどの恐怖にさいなまれていた時代があったはずである。日本史を少しでも勉強したことがある人であれば、それが江戸末期のことだろうと容易に予想がつく。そして、丸岡藩の根城・丸岡城はこの後に行く予定である。

日本海に5個の砲眼が開く

砲眼から覗く日本海

日本海側は草に埋もれようとしている

砲台の背後には土塁らしき土盛があった

 再び梶浦のバス停に戻ってバスに乗ろうとしたら、時間に余裕があった。そこで、バス停を一つ分戻って歩いてみることにした。できれば、越前松島があるらしいので見ておきたいと考えたのである。海沿いの勾配のある坂道を汗ばみながら登りきると越前松島の駐車場があった。砲台跡とは違って、こちらは案内の類が充実しているようで、下調べはほとんどして行かなかったにもかかわらず、難なく目的地に辿り着けた。
 越前松島は宮城県の松島に似ていることからその名がつけられた。東尋坊の男性的な景観に対して、女性的な柔らかな優しい景観が特徴だそうだ。この越前松島には海食洞と呼ばれる洞穴がいくつか存在している。聖り穴観音洞がそれで、縄文〜弥生時代に古代人が生活した形跡が見られるらしい。東尋坊が海の彼方に見え、すぐ近くに越前松島水族館という海を取り入れた水族館がある。ここでは泳いでいる人を何人か見かけた。

国定公園越前松島

ここにある岩は全て独特の岩肌

その岩肌とはこのようなもの

聖り穴は丸岡藩主本多飛騨守が寄進した観音堂がある

この観音洞は松島三洞穴の一つで、古代人の住居跡

時間を忘れてお茶を飲んだ長茶ヶ浜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水族館前のバス停では先客がバスを待っていたが、全員が難なく着席できた。梶浦のバス停をバスは素通りし、まもなく海岸沿いの道を離れた。数分後、JR芦原温泉駅に到着した。ここで、今晩のご飯となる駅弁を仕入れておく。越前らしい、「鯖姿すし」が手に入った。

 芦原温泉駅から今度は本丸岡行のバスに乗るのだが、時間が少しあるので、休憩することにした。夏の夕陽は強く、喉は自販機のアイスを求めていた。甘さに負けて、ついつい小銭を片手に歩み寄っている自分がいた。バスが来るまでのしばらくの時間を涼んで過ごすことが出来たが、それはあくまでも一時しのぎであった。
 地元客に混じって本丸岡行のバスに乗り込んだ。それほど時間がかからずに目的地の城入口バス停に到着。丸岡城の閉館までの残された時間は僅かだったので、写真を撮るのをそこそこに天守を目指した。終了時間の20分前だからと受付に言って入場券を何とか貰って、意気揚々と入城した。
 お鶴慰霊碑
一筆啓上書簡碑など気になるものはあったが、やはり天守は欠かせない。一度、福井大地震(昭和23年)で倒壊しているこの天守は日本最古を誇る。その時の地震で落ちてきた石の鯱が野外展示されていた。倒壊した天守は古材を用いて再建された。無骨なまでに質素な佇まいを見せる古天守は訪れる人を惹きつける。内部の階段はロープが渡されているほど傾斜が急で、戦国時代の城を肌で感じ取れる。
 天守閣から低い屋根の家々と遠くの田園地帯が見える。都会の中心にある天守閣から眺める風景とは違って、どこにもビルのような建物がない。時にはここから白山の山々が見えることもあるらしいが、今日は夕方で既に遠くが暗くなっていて分からなかった。

 ロープにつかまりながら階段を下ると、受付にいた職員の方が戸締りをしているところだった。お礼を言ってその場を去った。城山には誰かの銅像が何人か立っていたが、いわれやその他は分からなかった。そして、城山の入口には「国宝霞ヶ城」と大きく書いてあるのだが、この国宝とは戦前の話で、現在は重要文化財に指定されている。
 城入口バス停まで行く途中に休憩所らしき建物を発見した。近づいてみると、丸岡城の古絵図が掲示されており、得した気分になった。また、ここでは一筆啓上賞(現在は新一筆啓上賞)の受賞作品が展示されていた。一筆啓上とは「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙を本多作左衛門重次が妻に出した手紙のことで、お仙とは後の6代丸岡城主本多成重。入選作品の意味をよく吟味してしばらく思いに耽っていた。
 丸岡城は広大な堀があったことが古絵図から分かるのだが、今はその片鱗がわずかに残るのみとなってしまった。そのひとつがタブの木で、かつては外堀沿いの土手の上にあった。今は国頭神社の神木としてしめ縄が巻かれ、大切にされている。

(戦前の)国宝霞ヶ城

城山と丸岡城

日本最古の丸岡城天守

天守を正面から撮影

越前大地震で倒壊した際に落ちてきた石の鯱

天守内部にある階段に張ってあるロープ

丸岡町の家々と田園地帯が見える

堀が大きいのがよくわかる古絵図

一筆啓上賞(現:新一筆啓上賞)の入賞作品

元々は外堀の土手にあったタブの木

 帰りは本丸岡バスターミナルまで歩いていった。JR丸岡駅行のバスに乗り込むとあまりの惨状に驚いてしまった。壁の一部分は剥げて、座席のクッションが見えているものがある。何せ1日6本しかないローカル路線ですから、このようなものでしょうと、納得してしまった。乗客は自分を含めて3人だった。終点までほとんど乗降がなかった。
 丸岡駅は丸岡町ではなく坂田町にあるというややこしい駅。それでも、駅の待合室にはテレビが付いているという豪華さには驚いてしまった。そんなに大きな駅ではないのだが、今は夕方のためか電車が到着する度にまとまった人数が出てくる。
 この駅から帰りの電車に乗った。行きに乗った電車と全く一緒だが、時間が遅くて外は真っ暗という違いはある。福井駅を通り過ぎてしばらくすると、長い長い北陸トンネルに入って退屈になったので駅弁を開いた。ただの棒寿司ではなく、とっても美味だった。これはお勧めが出来るほどの味だった。ただ、食べていると窓の外に虫が寄ってくるのがかなり気になった。
 敦賀を出ると、大阪方面のみのループ線に突入する。途中、トンネルを通るので分かりづらいのだが、線路はぐるっと1回転して高さを稼いで山を登っている。この間にチラリチラリと夜景が見えるのだが、これが綺麗だ。ちなみに、敦賀市街の明かりである。帰りも行き同様にデットセクションで消灯となったので、文字通りの真っ暗となってしまった。外の景色が見れて綺麗というのは若干あったのものの、暗い車内は薄気味悪かった。
 この後は、行き同様に米原で乗り換えて新快速で大阪へ帰った。

鯖姿寿しの外袋

中身は棒寿司になっている

●リンク

参考サイト 福井市観光協会
三国町観光協会
東尋坊観光協会
丸岡町役場
えちぜん鉄道
京福バス
内部リンク 丸岡城

 

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