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天台宗清滝寺徳源院(とくげんいん)京極氏の菩提寺。鎌倉中期に近江を領していた佐々木氏は、六角・京極・高島・大原氏に分立しました。 本家にあたる六角氏は織田信長によって滅ぼされましたが、京極氏は江戸時代も大名家としてつづきました。江戸時代、高和の代に讃岐の丸亀に封ぜらましたが、寛文十二年(1672年)その子高豊が領地の一部とこの地を交換し、寺を復旧し三重塔を建立し院号も高和の院号から徳源院と改称しました。 境内の奥・墓域には、始祖の氏信を筆頭に京極家歴代34基の宝筺印塔が並んでおり、上段の18基と下段の石廟が国指定文化財、その他が県指定文化財となっています。 バサラ大名として名を馳せた京極道誉(きょうごくどうよ)【=佐々木高氏】の墓もこの地にあります。 また、境内には道誉が愛したと伝えられるしだれ桜(道誉桜、現在あるのはその2代目と3代目)があり、 |
徳源院の塀 |
境内にある三重塔 |
境内奥の墓所 |
徳源院参道の桜並木大門から徳源院までつづく桜並木です。4月はじめには桜のトンネルができます。昔、大門から奥は徳源院の坊寺(十二坊)のエリアでした。その参道が桜並木になっています。 |
大門から徳源院(桜の季節) |
大門から徳源院(梅雨明け) |
北畠具行卿の墓(ちち墓さん)元弘(げんこう)の変(1331年)で失脚した北畠具行の墓。天台宗清滝寺徳源院の南700m、丸山(285m)の山頂、柏原の仲井町に抜ける峠道、猫居坂の南にたてられている。後醍醐(ごだいご)天皇に仕えた具行は、鎌倉幕府打倒の謀議に度々加わり、その中心的存在でしたが笠置(かさぎ)落城の後に幕府方に捕らえられ、鎌倉に護送される身となりました。しかし、護送の途中、その人となりを惜しんだ京極道誉(きょうごくどうよ)【=佐々木高氏】は、清滝寺に彼を留め、1ヶ月余りにわたって幕府に具行の命乞いを続けました。しかし、その願いも空しく、元弘二年(1332年)6月19日にこの地で斬首され、その生涯を閉じました。 墓は高さ204cmの宝篋印塔で、死後16年を経て建立されました。今もなお、6月19日の命日には、地元の人々によって手厚く供養されています。国指定の史跡です。 この墓はちち墓さんとも呼ばれ、子供が生まれたとき母乳が十分に出るようにと願をかけておまいりしたと言い伝えられています。塔の上部を傾けてモチ米を入れて回転させて粉にし、この粉をおも湯にして母子が食べたとらしい。回転させる部また、具行卿の子が父を訪ねて墓参したことから父墓と呼ばれるようになったともいう説もあります。 二年後、足利尊氏主力の朝廷側が倒幕に成功、幕府側の六波羅探題北条仲時以下430名はなんとか京を脱出し鎌倉を目指したものの、柏原宿に近い番場宿の蓮華寺まで来たところで、朝廷側に包囲され全員自刃。蓮華寺には430体の古いお墓があり、寺の前にはこのとき出来たという黒血川がある。 |
北畠具行卿の墓 |
柏槙(びゃくしん)平成3年3月1日、滋賀県指定自然記念物柏槙とはイブキ(別名イブキビャクシン)と呼ばれるヒノキ科の常緑高木です。 イブキとしては滋賀県内最大級の巨木で、樹高約10メートル、幹周り約4.9メートルもあります。推定樹齢は700年〜800年。京極氏が墓地を定めるために伊吹山から投げた苗木が飛び、この地で根付いた、という言伝えがあります。 |
清滝山(標高438m)大松明行事を行う山なので松明山(たいまつやま)ともいう。清滝神社から山道となり、ところどころに火祭りの標識がある。「宮の上192m」、「大岩250m」、稜線に出たところが「調子口360m」。ここは見通しが良くなるよう切り開かれています。 稜線の坂道をたどると頂上に着く。(三等三角点がある)大松明行事の点火場所である「火点場(ひともしば)」もここにある。 頂上からの展望:北は伊吹山、南に霊仙山・鈴鹿の山々、西に琵琶湖・竹生島、東は関ケ原・濃尾平野。 頂上から東に別ルートがある。(松明行事では下山道) 「しめの尾400m」、ここから少し下ったところにイワウチワ群落がある。早春には一面淡いピンクの花で覆われる。 さらに稜線を下ると「山の神325m」、道なりに下山し「水呑み場205m」。ここから東の幅の広い道を下ると、「清滝の大松明」クライマックスの行われる墓地を経由し清滝集落へ、また、南の道を下っても清滝集落に出る。 ※8月14日-15日は区民関係者以外の入山はご遠慮下さい |
西国33ヶ所観音石仏霊場(通称:観音山)33ヶ所観音に対応する石仏が散在しています。ただ、第1番那智山青岸渡寺のみ清滝山登山道途中、大岩付近にあります。 |