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2005年07月19日

ミャオ族(三苗)

伝説

中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族の君主・黄帝が蚩尤(しよう)の民族の討伐作戦を行い、?華(たくか、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い性格に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。


揚子江定住

漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。


西南中国へ移住

唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国したとする説もある。英語版ウィキペディアでは詳しく書かれているが、南詔の建国民族はいまだ不明な点が多いためここは省くとする。いずれにせよ、ミャオ族も他の少数民族同様に南詔で暮らしていたものだろう。(参考書:『西南民族史の研究』藤沢義美/昭和44年)

Wikipedia

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日本のルーツ? 長江文明

■1.再生と循環の長江文明■

 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■

 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。

 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。

■3.平等な稲作共同体■

 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。

■4.太陽と鳥の信仰■

 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。日本サッカー協会のシンボルマークとしてもよく知られている。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷(えみし)を鎮定した日本武尊(やまとたけるのみこと)は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。

■5.鳥と龍との戦い■

 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。[a]

■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■

 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。

■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■

 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。

■8.日本列島へ■

 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。[b]

■9.幸福なる邂逅■

 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。[c]

 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。

 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。[b]

 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■
a. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの
 ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」に秘められた宗教的・政治的理想とは。
b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
c. JOG(134) 共生と循環の縄文文化
 約5500年前から1500年間栄 えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 安田喜憲、「古代日本のルーツ 長江文明の謎」★★★、青春出版社、H15


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檀君神話(文献神話)

1. 檀君神話

1121699991_200x288.jpg 太古の昔、桓因(ファンイン)という天帝の庶子に桓雄(ファンウン)がいた。桓雄が常に天下の人間世界に深い関心をもっていたので、天符印三筒を与えて天降りさせ、人間世界を治めさせた。  部下3000人を率いた桓雄は、太伯山(テベクサン)上の神壇樹(シンダンス)下に下りて神市(シンシ)とした。かれは風伯、雨師、雲師をしたがえて穀・命・病・刑・善・悪をつかさどり、人間の360余事を治めさせた。  このとき一匹の熊と一匹の虎が洞窟で同居していて、人間に化生することを念願していた。桓雄は一把のヨモギと20個のニンニクを与えて、100日間日光を見ないように告げた。熊は日光を避けること37日目に熊女(ウンニョ)になったが、虎は物忌みができず人間になれなかった。  桓雄は人間に化身した熊女と結ばれ、檀君王倹(タングンワンゴム)を産んだ。檀君は中国の堯帝が即位して50年目の庚寅の年に、平壤を都として朝鮮と呼んだ。のちに都を白岳山の阿斯達(アサダル)に移して、1500年間も国を治めた。  周の武王が即位した己卯年に、箕子(キジャ)を朝鮮に封ずると、壇君は阿斯達からかくれて山神となった。寿命が1908歳であった。(姜在彦『朝鮮儒教の二千年』01朝日選書 p.28)

・北方アジア原住民たちの巫俗神話では、熊が人間であり、人間がまさに熊であるという観念が根づいている。このような観念は、日本のアイヌ族においてもみられる。
「熊との交婚はウラル諸族を除いても、ツングース諸族のほぼ全域と、朝鮮、ニヴフ、イテルメンアイヌと中国に見られ、分布が極めて広い」(大林太良「朝鮮の檀君神話とツングースの熊祖神話」『東アジアの王権神話』84弘文堂 p.369)。

・熊は冬眠により洞窟の中でいったん死んだ後再生する。それはアマテラスの岩戸入りとも通じる死と再生のイメージである。

・多くの神々は天から降下したか、天を往復することのできる権能をもっていた。桓雄は、世界木をつたって地上に降りてくる北方アジアシャーマニズムの神々の面影そのものである。

・朝鮮には、民族主義を象徴する檀君神話とともに、事大主義をあらわす箕子神話の二系列の神話が伝わっている。
箕子神話とは、殷代末期、紂王の師をつとめた賢人箕子が殷の滅亡に際し、東行して現在の朝鮮の西北部に亡命し、この地に国を建てて王となり、人民にいわゆる「八条の教訓」を示して理想的な統治を行ったというものである。
箕子神話は長く支配層に支持されてきたが、元(モンゴル)の脅威が高まり民族意識が高揚すると、檀君神話が脚光を浴びるようになり、檀君は箕子朝鮮より古い朝鮮全土の開国神・始祖神とみなされるようになった。

・1909年羅?(らきつ)により始められた「大そう教(「そう」はにんべんに宗)」は檀君を朝鮮民族の始祖として崇拝する宗教で、「檀君教」とも呼ばれる。

・韓国では、檀君が降臨したとされる10月3日は祝祭日(「開天節」)であり、1961年までは「檀君紀元(西暦+2333年)」が使用されていた。

2. その他の文献神話

1121700088_300x200.jpg依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』91瑠璃書房(p.23〜24)など

(1)高句麗の高朱蒙(コヂュモン)神話

夫余(東扶餘)王金蛙が太白山の下の優渤水で、1人の女に会った。女は河伯(河の神)の娘柳花(ユファ)で、天帝の子、解慕漱(ヘモス)に私通されたため、父母が怒って優渤水中に放置したのだという。金蛙がこの女を部屋の中に幽閉しておくと、日光が女を照らしてついにはらませた。女は大卵を生み、その中から神童が誕生した。彼は朱蒙(弓をよく射る人)と呼ばれ、その後種々の試練と苦難を克服して南走し、高句麗を建国した。

・解慕漱が北扶餘を建国し、その子の夫婁(ブル)が東扶餘に移したとされる。

・朱蒙に関する記述は、高句麗の好太王碑や中国の『論衡』、『魏書』、『捜神記』などにある。

・朱蒙には3人の息子がいた。長男の琉璃が高句麗の王位を継いだため、弟の沸流(プル)と温祚(オンジョ)は国を出て南へ向かいそれぞれ国を作った。海辺に建国した兄の沸流は失敗し死んだが、山辺に建国した弟の温祚は成功して百済の始祖となったとされる。日本の『続日本紀』では朱蒙を「百済の太祖」(四十、延暦七月条)と紹介している。

(2)新羅の朴赫居世(ヒョッコセ)神話


新羅六村(李、鄭、孫、崔、?、薜)の人々が閼川(アルチョン)の岸辺に集まって会議をしていると、楊山のふもとの林の中に光とともに白馬と大卵が天降り、卵の中から神童が生まれた。彼は赫居世(光り輝く君)と名づけられ、新羅の始祖王となった。

・六村の祖先もみな天から降ってきたとされている。

・赫居世王は亡くなって昇天したが、その後大地に落ちて五体がバラバラになった。慶州にある五陵の一つが赫居世陵であるといわれる。

(3)昔脱解の神話

東海の多婆那国の王と女王国の女が結婚して大卵が生まれたが、不祥なこととして卵は箱舟に入れて海に流され、新羅の阿陳浦に漂着した。一老婆がこれを引き上げ、箱を開けてみると、中に一人の神童がいた。これが脱解であり、新羅第4代の王(在位7〜79)となった。

・『三国遺事』には、脱解が、新羅に漂着する前に、金首露が治める駕洛(次項参照)に攻め込んだが、王位をめぐる神術戦に負けて新羅に去ったという話がある。

(4)駕洛(カラク)の金首露(キムスロー)神話

駕洛国(加羅、伽耶)の村々の村長たちが亀旨峰(クヂボン)に集まり、神迎えの祭りを行っていると、天空より神の声が聞こえ、紫の縄が天から垂れ、縄の先に金の合子(食器)があった。中には6個の卵があり、これが孵って6人の神童となった。彼らは各々六駕洛の王になった。ある日、緋の帆を張った船が神女を乗せて来航したので、これを迎えて王妃とした。女は阿踰陀国(アユダ、インドにあった国)の王女で、父王の命により、首露国の妃となるため渡来したという。

(5)耽羅国(タムラ、済州島)の三姓始祖神話

良乙那、高乙那、夫乙那の3神人が地中から湧き出した。一方、東の海浜に紫泥で封印された木箱が漂着して、なかから3人の処女が現れた。彼らは3神人の配偶者となるため日本国より渡来したと告げ、各々成婚して国を開いた。

・「朝鮮神話における国祖ないし氏族始祖の出現形式には、①天からの降臨、②海の彼方からの来訪、③卵生、④日光感精、⑤獣祖、⑥地中からの湧出の六つの形がある。一方、日本の記紀神話では皇室の祖先の天からの降臨が主で、海からの来訪がこれに従属しており、その他、日光感精、三輪山式の出生譚などは特定の氏族の始祖神話や民間説話としてのみ伝えられている。なかでも朝鮮神話に目立って多く、日本神話にきわめて乏しいのは卵生神話である」(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』91瑠璃書房 p.27〜8)

・朝鮮神話と日本神話の類似について大林太良は以下のような指摘をしている。①資料が少ないことが比較の限界となっている。②日本神話には朝鮮以外の地域の神話との類似もある。③日朝神話の類似は主に王権神話に集中している。④王権神話の類似は日朝の王権の親縁関係を示している可能性が高い。⑤日本にも朝鮮にも多くの異なった神話が存在しているため、各々を個別に比較する必要がある。(『東アジアの王権神話』84弘文堂 p.196〜8)

檀君神話(文献神話)


伝承


桓因(??、ファンイン、帝釈?)の庶子である桓雄(??、ファンウン)が天下に興味を持ち人間界に興味を持った。その為、桓因は桓雄に人間の地を360年余り治めさせた。
その時に、一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
虎は、途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女、??」になった。しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に変わり二人の間に子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮(??)と号した。以後1500年の間、朝鮮をはじめ満州、中国大陸北部から中部、日本列島西部を統治したらしいが、周の武王が、朝鮮の地に箕子を封じたので、壇君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。

Wikipedia

朝鮮の建国神話(1)

北朝鮮が、「檀君王検」が紀元前2333年10月3日に平壌に都を定めたことをもって10月3日を「開天節」として祝うという。 朝鮮の建国は、「古朝鮮(王検朝鮮—箕氏朝鮮)」であるといわれている。これは朝鮮の古書「三国遺事」の巻第一の紀異第一にあるが、元々は中国の「魏書」にあり、朝鮮の「古記」にあったようで(「三国遺事」の巻第一の紀異第一で引用)、「古記」は散逸してしまっているので、確認の仕様がない。  「三国遺事」には、「魏書」に、今から二千年前に「壇(「三国遺事」の編纂当時(1275年〜1281年)の高麗時代では<檀>)君王検がおり、都を阿斯達(現在の北朝鮮の南部地方の黄海南道の九月山(当時はこの一帯も「白岳(平壌)」)に置いていた。この時代は中国の「堯」に当たる。さらに、「古記」にいうには、王検は「唐高(堯)」が即位してから50年たった庚寅(丁巳の誤りー「三国遺事」)に国号を「朝鮮」とした。彼は1500年も在位した。とある。この「檀君王検」が生まれたという「檀君窟」は北朝鮮の「金 日成」主席の宝物殿のある平安南道の「妙香山(みょひゃんさん)」にある。 したがって、この<丁巳>は紀元前2224年となる。この度、北朝鮮では建国を紀元前2333年としているそうですから、合致しない。さらには、「唐高(堯)」自体が伝説上の人物で実在したかどうかも定かでなく、その生年もはっきりしていない。 現存している歴史書で「古朝鮮」および「檀(檀)君」について記述があるのはこれだけです。

朝鮮の建国神話(2)

 この「壇(檀)君神話」というものは、先の「古記」に伝わるもので、昔、桓因(帝釈天)の子の「桓雄」が朝鮮に天下り、この国を治めたが、あるとき熊と虎が人間に成りたいと「桓雄」に願い出たところ、「桓雄」がヨモギとニンニクを与え、百日間、これを食べて陽の光を見ないで過ごせば人間になれると言ったが、虎は我慢できず、熊は我慢して人間(女)になれたが、一人身であったので子を産むことができない。そこで、「桓雄」が人間(男)に姿を変えて人間に化身した熊と結婚して子をもうけた。これが「檀(檀)君<王検>」であるというものだ。  この「檀君神話(ここからは「三国遺事」がいうように「壇」ではなく「檀」といいます)」が現れたのは、高麗時代の初期で民間信仰によるものとされている。  「三国遺事」の巻第一の紀異第一で引用する「前漢書」によりますと、中国の「(前)漢」が朝鮮が辺境の地であることから、これを封じていた「燕」に委ねたが、「燕」が「(前)漢」に叛き、建国したのが「衛氏朝鮮(「三国遺事」では「衛(満)朝鮮」)」で、その都が 「王検」であり、王名ではなく地名であるとして、「檀君<王検>」をいわば否定した記述となっている。  そして、高麗時代の民間信仰では、道教思想などから、この「王検」を王ではなく<仙人>として崇めていた。  ところが、高麗が1231年にモンゴル民族の「元」の侵略にさらされると、民族意識が高まり、救国の英雄として<「王検」仙人>の再来が期待され、先の「古記」などの「檀君(王検)神話」が高麗王朝によって広められ、急速に浸透して行った。

朝鮮の建国神話(3)

 この「檀君神話」は李氏朝鮮に受け継がれ、国号の「朝鮮」も<王検朝鮮—箕氏朝鮮>から取ったものといわれている。  李氏朝鮮王朝も「檀君(王検)」の神格化に努め、第4代「世宗」は1429年に、高句麗の第1代王「東明王(朱蒙—檀君(王検)の子といわれている)の宗廟に「檀君(王検)」を合祀し、国父として崇めた。「檀君(王検)」が公式に認められたのはこの時からだ。  ただ、この時はまだ、「古朝鮮(王検朝鮮—箕氏朝鮮)」が紀元前2333年に建国したとは定めてはいなかった。  これが言い出されたのは、1945年後の「韓国」からだ。  この「檀君神話」は現在でも韓国では有力な固有宗教となっております。このような宗教・民間信仰は北朝鮮では認めませんから、否定されておりました。  これが、一転して檀君(王検)の遺骨が平壌郊外で発見されたという捏造までし、王廟まで建設して「檀君神話」を大々的に宣伝したのは、第一に、領土拡大にその意図がある。北では「古朝鮮(王検朝鮮—箕氏朝鮮)」が朝鮮地域に止まらず、満州にも及んでいたと主張し始めている(韓国も同じ)。高句麗も同じで、満州の南部地方は朝鮮(北朝鮮)の領土であると言っている。このことはまた韓国の民族意識をくすぐるもので、韓国民を自己の主張する<統一>味方に付けたいとの意図も第二にある。  もちろん、これを提唱したのが「金 日成」首領様であるということをこれまた大々的に宣伝している。

朝鮮の建国神話(4)

 この「檀君神話」の基礎になる「古朝鮮—箕氏朝鮮」もその後の「衛(満)朝鮮—衛氏朝鮮」も実在が立証されていない。「古朝鮮—箕氏朝鮮」が実在すれば中国の王朝より古いことになる。  朝鮮で、実在が立証されているのは「三国時代(高句麗、百済、新羅)」あるいはその直前からだ。  朝鮮人学者は、これが不満で、せめて「衛(満)朝鮮—衛氏朝鮮」が朝鮮人国家であると主張する者が多い。「三国遺事」の「衛(満)朝鮮—衛氏朝鮮」が中国人の国家であると記述されているにもかかわらず、王の「衛」自身が朝鮮人あるいは朝鮮系であり、中国の遼東半島を支配していたと強調しているが、朝鮮人以外には誰も認めていません。また、「古朝鮮—箕氏朝鮮」も実在していたと強弁する者もおり、学会では否定的な者も多いが、朝鮮人特有の<民族意識>に抗しきれず、沈黙を守っている。  いずれにせよ、「檀君(王検)」によって建国されたという「古朝鮮(王検朝鮮—箕氏朝鮮)」が紀元前2333年に建国したとは全く根拠がない。また、建国の日が「10月3日」というのも建国自体が紀元前2333年であるということに根拠がありませんから、根拠があろうはずがない。  朝鮮人が建国を<紀元前2333年10月3日>とするのは勝手だが、日本が建国記念日を決めるについて朝鮮人から文句をいわれる筋合いではなかろう。

<完>

朝鮮の建国神話(解法者)

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2005年07月16日

猫寺

球磨郡・水上村の千光山生善院というお寺にまつわる昔話。
無実の罪から息子を殺された母の執念ともいえる呪いのお話です。

 天正十年(一五八二年)のことです。
 人吉・球磨地方は、わずか十歳の相良忠房が殿様として治めていました。ある時、
「忠房のおじ、相良太膳助頼貞が謀反をはかり、湯山の地頭、湯山佐渡守宗昌と、その弟で水上村岩野の普門寺の僧盛誉を味方に引き人れてせめてくる。」
と、告げ口をしにきた者がいました。
 それを聞いた忠房は、あわてて家来たちと相談して、宗昌・盛誉兄弟を殺そうと、多くの家来たちを普門寺へ差し向けました。
 家来たちが出発したあとでいろいろ調べたところ、根も葉もない作りごとであることがわかりました。そこですぐに、忠房は普門寺に向かった家来たちを止めようと、犬童九介にその後を追わせましたが、九介は免田の宿場で好物の焼酎を飲みすぎて、ぐっすり眠り込んでしまいました。
 普門寺では、忠房の家来たちがせめてくるという知らせを聞いて、盛誉たちが集まって相談しました。盛誉は、兄の宗昌に、疑いが晴れるまでしばらく身を隠しているほうがよいとすすめました。宗昌は一緒に逃げるように盛誉に言いましたが、盛誉は、
「わたしは仏にお仕えする身です。そのわたしまで逃げ隠れしたら、殿の疑いはいちだんと深まるでしょう。わたしは・この寺に残ることにします。兄上だけは、どうかしばらくどこかに隠れていてください。」
と、再び宗昌に寺を出ていくようにすすめ、自分は寺に留まることにしました。宗昌は仕方なく一人で寺を抜け出しました。
 夜明け前、球磨川を渡ってせめてきた武士たちは、じりじりと寺を囲みました。盛誉は、昨夜力なく肩をおとして逃げていく兄の姿を思い浮かべながら、静かに仏様の前に座っていました。そこへ、二人の弟子が青くなってかけ込んできました。
「おししよう様、おししょう様、早くお逃げください。もう門の前までやってきました。早く逃げてください。早く、早くー。」
「いやいや、わたしはこのままでよい。おまえたちこそ、早く逃げなさい。」
 しかし、そのとき、お堂の障子が黒木千右衛門という武士に蹴破られました。千右衛門は、盛誉を見つけると、ものも言わずに、一刀のもとに切り倒しました。盛誉は、そのままばったりと倒れました。二人の弟子は、かなわないまでも、師のかたきと千右衛門に飛びかかりましたが、苦もなく切り捨てられてしまいました。
 いっぽう犬童九介は、東の空が白み始めるころ、けたたましいひづめの音に目をさましました。
「しまった。遅れたか。」
 九介は、とるものもとりあえず普門寺にかけつけましたが、すでに、盛誉や弟子たちは殺された後でした。九介は使いの途中で、焼酎を飲んで眠り込み、殿様の命令を果 たせなかったことを申しわけなく思い、その場で切腹してしまいました。

 それから何日かたったある日、市房神社にこもっておいのりをしている年をとった女の人がいました。盛誉の母親です。母親は、盛誉を殺され、宗昌も行くえがわからなくなったことをなげき悲しんでいましたが、悲しみが深まるにつれて殿様とその家来たちをうらむようになりました。今その恨みを晴らすために、二十一日間断食して、市房神社にお祈りしていたのです。日は窪み、髪は乱れて、見るからに、一心に思いつめている様子でした。その枯れ木のような両腕には、一匹の黒ネコが抱かれていました。
 そして二十一日目の夜、冷たい山の風が吹き抜ける社殿の片隅に座り込んでいた母親の膝の上では、その黒ネコがひもじさのために力なく鳴いていました。それを見ていた母親は、何を思ったか急に自分の指をかみ切り、流れ出る血をネコになめさせました。そして、低い声で、まるで人間に語りかけるようにネコに話しかけました。
「玉垂や。わたしの言うことを聞いておくれ。わたしの子は、何の罪もないのに、殿様に殺されたり、行くえがわからなくなったりしてしもうた。いかに殿様でも、ひどすぎる。あまりにも情けない。敵討ちをしようにも、年老いた女の力では、何もできない。わたしの気持ちをわかっておくれ。」
 母親は、冷たい夜風の中で、呪いの言葉をくり返しくり返しつぶやいていました。
 その数日後、ネコをしっかりと抱いた母親の死体が市房山のふもとの川に浮かんでいました。
 春も終わるころ、盛誉を切った黒木千右衛門が病気になりました。なんでも、ネコにおびえる様子がひどく、まもなく気が狂って死んだという噂が流れました。
 三年後には、殿様が十三才の若さでなくなりました。そのほか、ネコのたたりと言われる不思議な出来事が、次から次と起こりました。
 お城では、いろいろお祈りをしてみたが、不思議な出来事はおさまりませんでした。そこで、新しい殿様は、呪いをはらうために慈悲権現社を建て、また、普門寺のあとに生善院を建てて盛誉と母親の魂をなぐさめました。更に、その命日には、殿様がお参りをし、人々にも必ずお参りをするように命じたので、ようやくネコの祟りは無くなったということです。
 それ以来人々は、普円寺のあとに建った寺を生善院猫寺と呼ぶようになりました。
 生善院の東側には、盛誉と母親とネコのお墓のしるしとして、三本のヒノキが植えられたということです。この三本の木は、いつの頃か、その根もとが一本の木のようにくっついてしまい、熊本県で、最も大きいヒノキとして、天然記念物に指定されていましたが、昭和三十九年九月三十日、人吉・球磨地方をおそった台風で根もとから折れてしまったということです。

 おしまい。

肥後むかし話 猫寺

相良の猫騒動

 戦国時代の天正10年(1582)、人吉の相良氏は薩摩・島津氏と敵対関係にあり抗争中だった。そんなとき市房神社の別当寺である真言宗・普門寺5世の住職盛誉和尚は島津方に寝返ったと噂が立った。恐れおののいた領主相良氏は3月16日に、噂を確認せぬまま無実の盛誉和尚を殺し、普門寺も焼き払ってしまった。

 盛誉和尚の母玖月善女(くげつぜんにょ)はこれを恨みに思って相良氏に復讐を誓い、これまでかわいがっていた猫の玉華(たまたれ)と共に市房神社に篭り自分の手を自ら噛み切り、その血を玉華になめさせ怨霊となって相良一族に祟るように言い含め、自らは川に身を投げて死んでしまった。

 するとまもなく相良一族に「化け猫玉華」による不吉なことや、悪いことが次々起こり、この崇りを恐れた相良家では盛誉と玖月の恨みを鎮めるため、普門寺の在った所に新たに生善院を建立した。生善院は別名「猫寺」と呼ばれるようになった。寛永2年 (1625)にはまた別に観音堂を建て盛誉和尚のため阿弥陀如来を、玖月のためには千手観音を祭り、毎年3月15日は市房神社に3月16日は猫寺に参るよう命じ、藩主自らも参ったという。

 生善院観音堂は現在、国の重要文化財に指定されており、地元では毎年3月15日に市房神社に参る「おたけ参り」という年中行事が今でも行われている。

ヤマネコ山遊記:猫と縁のある山


1121517946_226x160.jpg猫寺(水上村)
相良家の化け猫騒動にまつわる観音堂。
堂内には唐様のすばらしい厨子がある。

人吉・球磨の史跡めぐりより



【参考リンク】
 ・性善院(猫寺)

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2005年06月15日

マレ・ベルニエ村の芝棟(フランス)

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藤森 照信(建築家)

 やっと撮れた。

 1997年の9月は季節はずれ、2000年の4月は早過ぎ、これが最後、三度目の正直と思って出かけた03年の6月は遅過ぎて、もう来るもんかと腹を立てながら農道を歩いていると、向こうから買い物カゴを下げた日本の若い女の人がやってくるではないか。こんなフランスの片田舎にどうして日本人が、とお互いに思いながらそれぞれ事情を説明し、プレゾン君子さんの電話番号を聞いて別れた。

 そしてこの度、朝日新聞の方から君子さんに電話して今年の開花時期を確かめ、5月3日、ついにフランスの写真家が撮ってくれたのである。

 屋根のてっぺんがたいへん不思議なことになっている。茅葺(かやぶ)きの棟の上にアイリス(アヤメ科)が並んで咲いているのだ。世にも珍しいアヤメのすし詰め状態。アイリスの根元の土盛りは、多肉植物のセダムが固めていて、夏になると小さな花をつけるという。

 この村の名はマレ・ベルニエ。セーヌ川が海に出るあたりに位置し、村長のクロード・ブロンデルさんに聞くと、ただ今現在、家は246軒、人口は461人。アイリスが屋根で咲くのは40軒ほど。

 今の日本はエコロジーの影響で、屋上庭園をはじめ建築緑化の動きが盛んだが、私には不満があって、視覚上、建物と緑が別々になっていて美的な統一に欠ける。ところがこのフランスの田舎家は、茅葺き屋根とアイリスがお互いを引き立てあって一つの美をかもしているではないか。そのうえ面白い。

 こうした不思議な作りは、エコビレッジとして保護されているこの村だけなく、イギリス海峡に面するノルマンディー地方に広く分布することが知られているが、しかし、いつ始まったものか(地元で数百年前と伝えるが)、なんでこんなことをするのか、さっぱり分からない。名前すらない。名前もないのは、誰も本格的に調べたことがないからではあるまいか。

 フランス人でも存在すら知らない人がほとんどだろう。たとえ知っていても、そっくり同じ作りが日本の民家にもあることを知る人は皆無にちがいない。

 日本では「芝棟(しばむね)」という名がちゃんと付いているし、植物学者と建築学者の研究もあるが、由来についてはフランス同様はっきりはしない。

 ユーラシア大陸の西と東のはずれという分布は、植物でも動物でももちろん文化現象でも珍しい。どうしてだろう、考えてみてください。


◆かつて日本各地にも

 ノルマンディー地方の芝棟は、小麦やライ麦、カヤなどのわらで屋根を葺き、その上にアヤメ科のジャーマンアイリスを植えることが多い。開花時期は5月初めの1週間ほど。マレ・ベルニエ村では、葺き替えは約40年に1度で、県の補助制度もあるという。

 日本では、同じくアヤメ科のイチハツをはじめ、ヤマユリやカンゾウ、ニラが植えられる。かつては全国的にみられたが、近代化や過疎化による、茅葺き屋根の衰退とともに減少していった。江戸時代の儒学者、貝原益軒の著書にイチハツを植えた芝棟の記録があるほか、浮世絵にも描かれている。

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●マレ・ベルニエ村周辺の自然公園のサイトhttp://www.pnr-seine-normande.com/がある。日本の芝棟については植物学者の亘理俊次著『芝棟 屋根の花園を訪ねて』(八坂書房)が詳しい。

asahi.com 奇想遺産


 

日本の芝棟

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『芝棟 屋根の花園を訪ねて』:(八坂書房)

 

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