<岩村城跡>

日本3大山城の一つ、日本一高いといわれる海抜721mの山頂に築かれた山城

岐阜県恵那市岩村町

2006年8月4日訪問

岩村城の歴史概要について、知りたい方は・・こちらへ

岩村城めぐり 旅行記メモ・・知りたい方はこちらへ



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写真の配置は、登城の進行順(左→右→下→左→右・・・・・)に載せております。
歴史資料館(藩主邸宅跡)沿いの小山
赤松の林で、中腹にある小屋は御殿茶室
奥に見えるのが「歴史資料館」
徳川時代になって、藩主邸宅はこの場所に移って来た。
手前から登城口となっている
山裾からの最初の登城口地点
「女城主の里」としての宣伝は行き届いている。
登城坂道の石畳
右側は下田歌子の勉学所跡、左側は公園になっている
石畳の坂道が延々と続く。「一の門跡」付近
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城にあたる。一の門は櫓門の二階建で、監視の番人がいた。
土岐門(本丸迄300mの地点)を過ぎた大手門前の「畳橋付近」

杉の木が生えている付近は空堀になっていて、手前から橋が架かっていて、敵が攻めてきたときに、この橋をとりこわし、進入阻止をはかる仕組みになっていた。
大手門跡入り口付近の堅固な石垣
用途は、敵が襲撃してきた場合、石垣の上から鉄砲て゛撃退する為のものらしい。
竜神の井
大手門をすぎてしばらく行くと、道の脇にこの井戸がある。今でもこんこんと水が湧き出ている。
この辺りに「三重櫓」があったのかどうかはわからないが、看板の絵図だったのには驚いた。町のほうから見ると本式の櫓に見えた。 「霧ケ井」

「霧ケ井」について、詳しく知りたい方は・・こちらへ

「菱形の石垣」
「霧ケ井」を通り過ぎてしばらく行くと右側に、他に例のない、このめずらしい石垣がある。以前はこの上に櫓があり周辺の監視をしていたようだ。
本丸方面への登城口階段とその周辺の堅牢な六段壁
地形が急斜面の為にとった工法で六段階積みになっているため、六段壁と呼ばれている。
同左 本丸跡に来て、すぐ目に付いたのが、「織田信長の宿泊した場所の表示板」本丸跡の片隅にある「昇竜の井戸」
「本丸跡」「本丸跡」の端に立ち、下の石垣を見たもの
不明門(二の丸裏入口門?)及び本丸の「狸門」に通じる通路。
本丸跡本丸跡の石垣
「不明門跡」近くから見た光景、この前方が「二の丸跡」なのだが、杉林に覆われ,その面影はまったくない。本丸跡から見た石垣群
石垣下を前方に進み上ってゆくと本丸の狸門へとつながる
「出丸 」
以前は倉庫跡らしいが、今は商店・休憩所となっており、名前も森欄丸の名前がついている。

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「出丸跡」
本丸南側の石垣


岩村城復元絵図
@:二の丸 A:本丸 B:東曲輪 C:出丸 D:三の丸 E:登城坂 F:畳橋 G:土岐門 H:一の門 I:八幡曲輪


岩村町観光案内地図

参考資料・・・・観光案内所等で入手した資料・写真、現地案内掲示板の説明文等を参考にさせてもらいました。


岩村町出身の日本の先駆者

・下田歌子:(1854〜1936)岩村藩士平尾氏の長女で明治4年に18才で上京、宮中の女官となり、和歌の才によって皇后より歌子の名を賜りました。東京実践女子学園の創設者であり、愛国婦人会長ともなり、多くの著書類によって、広く女性の啓発活動に活動しました。

・三好学:(1861〜1939) 岩村藩士三好友衡の次男で江戸藩邸でうまれました。維新後に帰郷、その後小学校教師を経て上京、ドイツ留学後は東大教授となり、植物生理学や生態学を講じ、植物学の基礎を築くと共に、多くの学者を育てました。又天然記念物保存に尽力し、自然や環境保護の先駆者となりました。

・佐藤一斎:岩村藩出身の儒学者 、小泉首相が、2001年11月30日全閣僚に儒学者佐藤一斎の「重職心得箇条」の一節を贈った事で話題となる。
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